学校再興
2016年11月8日 08時57分戦災を受けた学校の施設の復興については、他の団体へ施設を貸し出して修理をしていただきました。また足りない費用は、寄付金やバザーによって集められました。
これによって100人分の机椅子、図書室、校内放送設備などが整えられました。
その後も少しずつ補修を重ね、昭和31年には図書館が開館し、講堂の修理も完了しました。
戦災を受けた学校の施設の復興については、他の団体へ施設を貸し出して修理をしていただきました。また足りない費用は、寄付金やバザーによって集められました。
これによって100人分の机椅子、図書室、校内放送設備などが整えられました。
その後も少しずつ補修を重ね、昭和31年には図書館が開館し、講堂の修理も完了しました。
終戦後、新しい学校つくりが始まりました。
昭和22年にから給食がスタートしました。
はじめは脱脂粉乳や味噌汁だけでした。
青南小学校では、昭和23年に結成された
PTA給食部の皆様が輪番で給食当番をしてくださいました。
始まったばかりの給食モデル
昭和26年には、パン・脱脂粉乳・おかずの完全給食が始まりました。
昭和20年8月15日に戦争は終わりました。
学校では9月1日の新学期から授業が再開されました。
地域に残っていた子供たちが24人集まりました。
一日一日学校へ子供たちが戻ってきました。
空襲で窓ガラスがなくなってしまった校舎での授業は
冬はとても寒かったそうです。
学校では、新しい教育がはじまりました。しばらくは戦争にかかわる部分は墨で黒く塗られた教科書を使いました。
昭和20年5月25日の夜、表参道の町は焼夷弾による空襲をうけました。多くの人々が、熱風を吸い込み、衣服を焼かれ命を落としました。
鉄筋コンクリートの学校も東側の9教室と柱を残して焼けてしまいました。学校の記録の多くも失われてしまいました。
しかし当時の青戸藤平校長先生の朝会での「校舎は焼けても心は焼けぬ」の言葉を胸に力を合わせたそうです。それでも苦しい生活だったと思います。
空襲の様子 (青南小学校資料室資料より)
空襲を受けた学校の想像模型
戦争で都会が危険になると、昭和19年、青南国民学校は学童疎開をしました。疎開先の北多摩郡、神代村は自然が豊かなところでした。
しかし疎開先でも空襲にあうことがあったそうです。
家族と離れた子供たちは、さみしさに負けず、協力して勉強に励みました。
疎開先 疎開先での食事の様子
疎開先での学習の様子
昭和16年、「太平洋戦争」が始まり、全国の小学校は「国民学校」と名前を変えました。
青南小学校も「青南国民学校」と名前を変え、戦争の世の中となっていきました。
必修となった武道(男子は剣道:女子は薙刀) 出征兵士の見送り
当時の作文の題 防空壕への避難
新校舎の完成を祝って、初めて校歌が作られました。
この時の校歌は3番まであり、歌詞もメロディーも違うので驚きました。
この校歌から今の校歌に変わったのは昭和28年のことです。
プールでの活動
完成した校庭にはプールや遊具が作られました。遊具は大変人気があり、休み時間は順番待ちの行列ができました。新しい校舎には当時の先生方や主事さん方、地域の方々が心を一つにしてつくられたものでした。
完成した校舎
昭和11年4月、開校30周年の年に鉄筋コンクリート3階建ての新校舎が完成しました。一部分は4階建で太陽灯室がつくられました。また講堂、プール、理科室、裁縫室、アスファルトの校庭など整備の整ったモデルスクールとして有名になりました。 当時の見取り図をもとに模型を作りました。
旧校舎(木造) 新校舎(鉄筋コンクリート)
仮校舎の様子
開校から30年が過ぎた木造校舎は、古く、児童の数も増えてきたため、新しい校舎が建てられることになりました。そのため昭和9年から、1年半の間は、近くの仮校舎での生活となりました。仮校舎は狭く不便な状況で、教室も職員室も玄関も大変混雑しました。1教室に70人近くの机が並んだそうです。体育館がなく学芸会や卒業式は近くの施設を借りて行いました。運動会は、遠足を兼ねて東横線に乗って、多摩川のグランドまで言ったそうです。。
建設中の校舎 建設中の屋上
現在の青南小学校の宿泊行事といえば5年生の夏季学園と6年生での移動教室があります。このような宿泊行事は、大正13年から始まっていたそうです。現在の青梅市の御岳山に林間学園が設立されました。当時は4年生以上の男子のみの参加で、14日間も宿泊したそうです。その後は青南海浜学園として千葉県などに場所を移して続いていきました。
林間学園の一日 青南海浜学園の食事風景。
地震の被害を受けた町(今の麻布付近) 青南小学校での食糧給付の様子
大正12年9月1日のお昼頃、東京を中心とした大きな地震がありました。関東大震災です。地面がわれて立つこともままならないほどでした。また、お昼時だったので多くの家庭から火が出て3日間も火事が続きました。多くの人が命を落とした災害です。 しかし青南小学校では、幸い被害はあまりありませんでした。そこで被害を受けた子供たちを受け入れたり、食料の配給所の役目を果たしたりしたそうです。そのため子供の数が増え2部授業を行ったこともあったそうです。
青南小学校の校章を見てみましょう。青南小学校の校章は、サクラの木の多い青山にちなんで、サクラの花に「青南」の「青」をデザインしたものです。
校旗は開校20周年にできました。現在の校旗は100周年のお祝いに作られたものだそうです。以前は校章をデザインした学校の旗を6年生が毎日大屋上に揚げていたそうです。
校章は、名札、校帽、体育着などに付けられています。
今回は大正の頃の学校の授業について、私たちの学習と比べてみました。
時間割をみると「修身」など、今は無い教科がありました。祖父に尋ねてみると「修身」は今の「道徳」に似ているなと思いました。また今は「図工」として絵を描くことと作ることが同じ教科ですが「図画」と「手工」に分かれていました。また、冷暖房設備がないためか、「季別教育法」といって季節によって授業の時間数を変えて時間割を工夫していたそうです。
今回は、昔使われていた教科書を私たちの教科書と比べてみました。、昔の教科書は小さいサイズでした。白黒で、仮名文字で書かれていました。見慣れない文字(旧字体)もありました。季節に関することが多くあらわされているように感じました。